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東京地方裁判所 昭和41年(ワ)1321号 判決

原告 大橋邦彦

被告 国 外一名

訴訟代理人 朝山崇 外三名

主文

原告の各請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

一、申立〈省略〉

二、主張

1. 請求の原因

(一)  原告は、前々から右項部に重圧感を自覚し、項部から右肩にかけて凝る等の症状があつたので、この原因究明のために精密検査を受ける必要があつて、昭和三八年二月六日国立新潟大学医学部付属病院脳神経外科に入院し爾来同科において種々の検査を経た結果、結局原告の病因は、脳幹部の循環不全、背髄腫瘍または頸椎の外傷による障害等ではないかと推定された。そこで同科は、原告がかつて昭和三三年五月二八日大阪日赤病院で背髄造影の施術を受けた時にその陰影に欠けた部分のあることが認められていたので、何よりもまずその領域に異常が無いかどうかを確認する必要があると診断し、同月一八日同医学部助手文部教官の被告川上が原告に対し椎骨動脈撮影を施した。

(二)[右撮影は、左の順序で施行された。

(1)  まず、原告の自律神経反射の抑制および鎮静の目的で「ノブロンA」を皮下に注射し、約三〇分後全身麻酔のためラボナール溶液を肘静脈に注射した。

(2)  しかる後、被告川上が血管撮影用の一八ゲージ針と予めポリエチレン管で結合した二〇ccの注射器に造影剤(ウロコリンM)を満したうえ、その針を原告の右側椎骨動脈の第五頸椎横突起と第六頸椎横突起との間に前方から右動脈へ穿刺し、注射器町に動脈血が脈打つて逆流してくるのを確認した後、八ないし一〇ccの造影剤を圧入するようにして注入し、その注入が終る寸前にまず原告の前頸部の前後像を前方からX線撮影し、フイルム入替ののち更に八ないし一〇ccの造影剤を注入し、その終る寸前に今度は原告の前頸部の左右像を左方からX線撮影をした。

(三)  ところが右撮影後、原告は、頸髄血管障害のために両上肢が麻痺して動かなくなり、それから約三時間後には右下肢、胸部および腹部にも麻痺が広がつた。

(四)  その後、同病院で輸血を行い、同年五月一日退院し、同年一〇月一五日から昭和三九年八月三一日までの間、新潟県立瀬波病院等でマツサージ、温泉浴、運動訓練および交換神経切除手術等を受けたが、原告には現在なお頸髄血管障害のため両上肢および右下肢の不全麻痺があり、上肢の前方挙上の能力は、右が五〇度、左は四〇度にとどまり、両手の握力は、昭和四〇年一〇月二七日現在で右が七キログラム(新潟大学付属病院入院時二四キログラム)、左が一三キログラム(右入院時二二キログラム)しかなく、右下肢は左下肢に比して四、五センチ短く、そのうえ痙性が強く、歩行のときは跛行する。しかも右症状はすでに固定し、治癒不可能である。

(五)  ところで原告の頸髄血管障害は、椎骨造影撮影の際に被告川上が注射針を椎骨動脇へ穿刺する時、思うように針が動脈に入らなかつたため、動脈を球索し幾度も動脈附近に針を突射し、これによつて頚部交感神経を侵害したのが原因で生じたものである。

しかして、椎骨動脈撮影に当り、造影剤注入用の注射針を椎骨動脈に穿刺する場合、動脈を探り当てるため過度に針を突射すると頸部交感神経を侵害する危険があるので、一、二度試みて動脈へ穿刺できないときはそのまま中止すべきである。しかるに被告川上はかかる注意を怠り、幾度も椎骨動脈附近に針を突き原告の頸部交感神経を侵害し、頸髄血管障害を惹起させたものであつて、原告の右障害は、被告川上の右のような過失に基づくものである。

(六)  被告国は、その設置する国立新潟大学医学部付属病院の医業務のため被告川上を文部教官、同医学部助手として使用しているものであり、被告川上は、右病院の医業務たる本件椎骨動脈撮影を行うにつき、原告に対し前記傷害を加えたものである。

(七)  原告は、昭和六年一月一一日生まれの男子で、昭和二三年三月旧制海城中学校卒業後同二六年東京シヤリング株式会社に入社し、倉庫、営業および総務の各々に勤務した後、同三五年同社新潟営業所営業課勤務となつたが、本件傷害により同三九年九月三〇日退職するのやむなきに至つた。

(八)  本件傷害によつて、原告は左の損害を被つた。

(1)  昭和三八年二月一八日から同年四月三〇日までの七二日間の看護料、金三万二四〇〇円(一日金四五〇円相当)

(2)  原告は、東京シヤリング株式会社より昭和三七年三月から同三八年二月までの一年間に、給与として金四〇万八七八九円、賞与として金一一万五〇〇〇円の支給を受け、合計金五二万三七八九円の年収があつた。右年収に基づく原告の平均月収は、金四万三六四九円となる。

従つて、原告は、昭和三八年三月から同四一年一月までの三五か月間に金一五二万七七一五円の収入を得ることができたはずであつたのに、本件傷害による欠勤、退職のため右三五か月間に原告が得た収入は、給与として金三一万九二〇円、賞与として金四万五七〇〇円にすぎなかつた。よつて原告は、右差額たる金一一七万一〇九五円の損害を被つた。

(3)  原告には、本件傷害を受けた昭和三八年二月当時月平均金四万三六四九円の月収があつたが、前記四記載の症状からみて労働能力の六割を失つたものというべきである。そして原告は昭和四一年二月一日現在満三五才の男子で平均余命の範囲内でなお定年(六〇才)まで二五年間(三〇〇月)は右平均月収を下らない収入を得たはずである。しかしてその間の月収の六割を基準とする得べかりし利益をホフマン式計算法で算出すると金五〇八万九六四七円となり、同額の損害を被つた。

(4)  原告は、本件傷害の治療のために数回に亘り計一三か月間入院したが、全治に至らず遂に治癒不能となつたし、そのために一三年間勤務した前記会社を退職するのやむなきに至り、原告とその家族(妻照子、長女麻利子、次女二美代)は、生活保護を受けてやつと生計を維持する状態となつた。原告は、昭和三八年三月には係長に昇進することが内定していた矢先に本件傷害を受け、将来の希望を失い身体障害者として一生を送らねばならない。これらの事情を考えると、本件傷害による原告の精神的損害を慰籍するには、金一〇〇万円をもつて相当とする。

(九)  よつて原告は、被告川上に対しては不法行為に基づく損害賠償請求として、また被告国に対しては同川上の使用者の責任として各自金七二九万三一四二円およびこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和四一年三月七日から完済までの民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

2. 請求の原因に対する被告らの答弁

(一)  請求の原因(一)ないし(三)は認める。

(二)  同(四)のうち、交感神経切除手術を受けたことは知らないが、その余は認める。ただし、昭和四〇年一〇月二七日の握力については、原告主張のような検査結果のあることのみ認め、それが真実の握力であることは否認する。

なお、被告川上および大塚医師は、原告の麻痺原因を考究し、種々の検査施術をほどこしたが、その原因が不明であつたので、以後もつぱら血行促進等によつて原告の回復を図つた結果、全治はしなかつたが、再び麻痺症状が軽快したので、原告は昭和三九年五月一日退院となつた。

(三)  同(五)は否認する。

被告川上は、昭和三四年頃からすでに十数回椎骨動脈撮影の際の注射針の穿刺の手技を行つた経験を有し、本件動脈穿刺は、順調に行なわれ一回で成功しており、二回以上試みた事実はない。また、動脈穿刺によつて頸部交感神経幹を侵害させたこともない。ただし椎骨動脈は不可視、不可触であり、それを模索するためには横突起の先端から横突起孔までの距離に相当すると思われる距離だけ針先を正中寄りに移動させる必要があり、そのため時々骨を確認しつつ上方に針先を進めるものであるとともに、施術には針先を動脈に刺入しなければならないものであるから、その間血管等に分布する交感神経繊維に解剖学的な見地から、なんらかの傷害を与えることはありうる。しかし、頸部交感神経にそのような被害ないし刺戟を与えても、それによる血管収縮は極めて一時的にしか起りえないから、本件のごとき合併症が起ることは考えられない。

なお、その他本件撮影について被告川上になんの過失もない。

すなわち、

(1)  原告には新潟大学入院の時、脳幹部の循環不全、上部頸髄の腫瘍および頸椎の外傷による後遺症が疑われ、これらの診断には、椎骨動脈撮影が必要かつ不可欠であるから、本件撮影は少しも不当でない。

(2)  本件撮影の施行方法については、造影剤の種類と量、原告の鎮静と麻酔も正しく行なわれている。

また、原告に生じた頸髄血管障害は、被告川上の手技の過失によるものではなく、その発生原因として、根動脈の損傷、原告の頸髄の弱抵抗性等が考えられるが、これらは到底予測不能のことである。

(四)  同(六)のうち、被告国が同川上を原告主張のとおり使用していることおよび同川上が業務として椎骨動脈撮影を原告に施したことは認めるか、その余は否認する。

(五)  同(七)および(八)は知らない。

三、証拠〈省略〉

理由

一、請求の原因(一)ないし(三)は、当事者間に争いがない。

二、右争いない事実に、〈証拠省略〉の結果を綜合すると、

原告は、昭和三八年二月一八日午前一〇時三〇分から一一時頃の間に被告川上より椎骨動脈撮影の施術を受け終えて、直ちに病室に運ばれ同日午後二時頃全身麻酔から覚めたところ、両側上肢が全く動かなくなつているのに気づき主治医の大塚医師の診察を求めたが、その時両側上肢の完全弛緩性麻痺および腱反射消失、挙睾筋反射および腹壁反射の消失等の運動機能の障害、頸部、肩、両側上肢の温痛覚喪失(但し、触覚は大体正常)、上肢内側面の触れる際のビリビリとする不快感等の知覚機能の障害があり、同日午後四時頃には右下肢、胸部および腹部にも麻痺が広がり、そして夕刻になつて多少動いていた右下肢が全く運動機能を失い、軽度の呼吸困難をおこすという各症状を呈したこと、その後昭和三九年五月一八日大阪赤十字病院脳神経科に入院した当時にも、両側上肢および右下肢の筋力低下、両側の三角筋、上腕二頭筋、第一指骨間筋および栂指筋群の筋肉萎縮、右側の腱反射亢進および錐体路症状、胸部以下の左半身の触覚低下、異常知覚および温度覚低下の各症状があつて、これがほぼ固定していたこと、そしてこれらの症状は、頸部の前脊髄動脈が支配している脊髄領域(頸髄)の血流(血管)障害によつて惹起された頸部前脊髄動脈症候群であると診断されたこと、

以上の事実が認められ、右認定を左右する証拠はない。

三、原告は、被告川上が本件椎骨動脈撮影の際に右動脈を探り当てるため過度に針を突射したため頸部交感神経を侵害し、これが原因で前記認定のような頸髄血管障害をひき起したと主張するのでまずこの点を検討するが、〈証拠省略〉によればもし本件椎骨動脈撮影の際に原告の頸部交感神経を侵害したとすれば、同側瞳孔の縮少、眼裂の狭小化等のホルネル症候群という症状が発現するはずであるが、原告にはかかる症状の発現はなかつたことが認められ、これに反する証拠はないから、原告の右主張は採用し難い。

四、前記当事者間に争いない事実に、〈証拠省略〉の結果を綜合すると、次のような事実が認められる。

1. 原告は、昭和六年一月二二日生れの男子であるが、昭和二七年一二日の夜自転車に乗車中、マンホールの穴にその前輪をとられ、前方に顔面から地上に投げだされて顔面を強く打ち負傷し、近隣の病院に入院したことがあり、その後昭和二九年末頃から、右頂部の圧迫されるような重圧感、顔面、口腔および前頸部の痺れ感を自覚するようになり、更に間もなくこれに加えて活字を見ていると時々五ないし一〇秒程の間字がかすむという症状が生じたので大阪の中津病院で診察を受けたところ、カリエスと診断され薬事療法を行つたが、見るべき変化はなかつた。次いで昭和三〇年二月大阪中央病院において右後頭下部位に出た神経鞘腫の摘出手術を受けたが、依然前記症状かおさまらなかつたので、同年五月大阪厚生年金病院で頸部右側前方の一部切開手術をしたものの、異常がないとの所見であつた。そして、昭和三一年初め頃から更に原告は、前症状に加え小さな物を持つと手がふるえるような感じを自覚するようになり、同年八月八日大阪国立病院の診察の結果、頸椎カリエスと診断されギプスベツトを与えられ二か月程薬事療法を行つたが病状は不変で、しかも昭和三二年一月大阪赤十字病院での診察によつて頸椎カリエスの疑いは否定された。その後昭和三三年五月二二日右病院において左足の線維性骨炎の手術を受け、その入院中に前記病状の診察の目的で同月二八日脊髄造影撮影を受けたところ、第三頸椎に狭窄現象がある旨指摘されたが、他に臨床上の異別な所見がないとの理由でそのまま同年七月二六日退院となつた。なお、右入院中の同月二二日原告に対し、局所麻酔によつて椎骨動脈撮影が試みられたけれども、最初は造影剤が椎骨動脈内に入つたものの撮影に失敗し、二回目は造影剤を注入する注射器の針が椎骨動脈に穿刺されず同じく失敗に帰し、この時は右撮影後にこれによる特別な異常は原告の身体に発生することがなかつた。次いで原告は昭和三三年八月二〇日頭重、口腔内および頬都から前頸部にかけての痺れ、耳鳴り、および手尖のだるさ等を訴え京都大学医学部附属病院第二外科に入院し、空気脳室撮影および各種検査を受けたが、異常なしとされ治癒しないままの状態で退院した。そしてその間にも同科で局部麻酔によつて椎骨動脈撮影を受けたものの、針が椎骨動脈に穿刺されず結局失敗した。

原告は、昭和三四年一一月勤務していた東京シヤリング株式会社大阪営業所から新潟営業所に転勤し、その後も前記同様の症状がなおあつて、これを訴え昭和三五年三月に新潟大学医学部附属病院脳外科において左径骨の単骨性線維性形成異常と診断され全身麻痺により二回に亘り(すなわち、同月二二日と二九日)椎骨動脈撮影の施術を受けたが、いずれも失敗し、結局原告の症状の原因がはつきりしないままであつた。

なお、原告は、昭知三六年八月一日狭心症および肺炎で同病院内科に入院した。

2. 原告は、昭和三八年になつて同大学医学部附属病院脳神経外科に赴き、昭和二九年頃から後頭部より頸部にかけて重圧感があり、かつ物を見るとぼける症状がある旨訴え診察を求め、結局その精密検査の必要があつて、昭和三八年二月六日同科に入院した。しかし、同科での一般検査および神経学的検査等には、特に異常がなく、同科では特に原告がかつて昭和三三年五月二八日大阪赤十字病院で施行された脊髄造影撮影の際、その陰影の第三頸髄部分に欠損が認められていたことを重視し、これらの資料も加えて検討し、原告の右症状を脳幹部の循環不全、脊髄腫瘍もしくは頸椎の外傷による障害と診断したが、確定的な原因はつかめず、原告の症状が自覚症状のみであつたため一たんはそのまま原告を退院させることとしたけれども、同年二月一五日の同科の教授を含む医局員全員の検討会において、原告の右欠損部分の領域に異常がないかどうかを確認する必要があるとして原告に対し椎骨動脈撮影をほどこすことに決定した。

椎骨動脈撮影は、動脈硬化等の血管性疾患、糖尿病、心臓病の異常のない者ならば、通常これを行つても特別な危険はなく、そして原告には、あらかじめの検査によつてかかる疾患がなかつたし、またその他にも特に異常の所見が見当らなかつたので、原告に対し椎骨動脈撮影を試みても危険は予想されなかつた。

3. そこで被告川上が過去に数十回の椎骨動脈撮影を行つた経験を有していたので、同被告が原告に対してもこれを行うこととなり、同年二月一八日請求原因(二)記載のとおりの方法および順序で椎骨動脈撮影に成功し、特に造影剤注入用の一八ゲージ注射針を一回で原告の椎骨動脈に穿刺することができ、造影剤も正確に右動脈内に注入され、他に漏れた形跡はなく、かつその施術中に原告の身体には特別な異常が発生することもなかつた。

そして右撮影にさきだつて、被告川上は、全身麻酔のためにラボナール溶液を原告の肘静脈に注射しそのうえで造影剤注入の手技にとりかかつたのであるが、全身麻酔を選んだのは、原告の疼痛をなくし、これによつて原告の緊張や運動を封じ右手技の失敗を防ぐことと、局所麻酔に比して自律神経反応、例えば血管の収縮、血圧の低下を防止できるからであつたし、かつその麻酔の方法も通常の事態で特に不都合と目されるものではなく、また造影剤のウロコリンMも通常用いられている造影剤であつたから、本件撮影の際に使用された薬剤等にも特段適切を欠くとみられるものがなかつた。

4. ところで、椎骨動脈撮影の合併症もしくはその副作用として、原告の本件のような症状、つまり前脊髄動脈症候群が発現した報告例はこれまでに全くない。

ある外国の症例報告(一九六五年)によれば、本件撮影と同様の直接穿刺法による二三七例の椎骨動脈撮影において一八例の副作用をみたが、それは、嘔吐、眩暈の一過性の症状と上腕神経叢の刺激症状が大部分で、二件の死亡例があるがこれはともに原脳疾患の悪化によるものであつて、これを除くと後遺症を残したものは一パーセント以下で、かつそれも上腕神経叢の障碍であつた、とされている。いずれにしろ、本件のような重大な症状を呈した例はなく、従つて、椎骨動脈撮影の合併症もしくはその副作用として頸髄血管障害の発生を予想することは困難であつた。

5. 直接穿刺法による椎骨動脈撮影は、椎骨動脈自体が頸部深く椎骨横突起孔を通過している不可視のものであり、これに造影剤注入の注射針を穿刺する技術が容易でないから、かなり高度の技術を要するところ、この手技に当つての危険性としては、(1) 穿刺の際に椎骨動脈の周辺に存在する上腕神経叢、交感神経を傷害すること(但し本件の場合、交感神経の傷害がなかつたろうことはさきに判断した)、(2) 造影剤が椎骨動脈外に漏れて周囲に広がること、(3) 脊髄くも膜下に造影剤が誤つて注入されること、(4) 穿刺部位からの出血、の四つが考えられるところ、(1) の上腕神経叢の傷害の場合、同側上肢の知覚異常が発生するのみであり、右(2) については、本件撮影の場合造影剤が椎骨動脈外に漏れた形跡がないことは先に記したとおりであるが、漏れたとしても一般的にはみるべき症状を呈することはなく、若干の局所漏れも一過性の症状を呈すのみで造影剤は吸収消失し、右(3) の場合は、重大な合併症を惹起するが、これも外国の一報告例によれば、ウログラフイン七cc二回の注入で約四〇分後から顔面潮紅、疼痛、四肢けいれんを呈し、まもなく意識を失い、その後もけいれんを続け呼吸困難を生じ、人工呼吸によつて約三六時間後にようやく平静をとりもどし危機を脱した、とされていて本件の原告の症状とは異質なものであり、また右(4) の場合は稀有のことであるから、これによつて惹起する症状も明らかではなく、従つて、原告の前脊髄動脈症候群の原因である頸髄血管障害が右の考えうる危険性のもとに発生したと断言することは困難である。

6. ところで、椎骨動脈撮影の方法として本件で用いた直接穿刺法の他に、経上腕動脈逆行性椎骨動脈撮影法(上腕動脈から強い圧力で造影剤を心臓方向に注入して撮影する方法で、造影剤は直接穿刺法と同様椎骨動脈中に流入し椎骨動脈系の像を摘出し、従つて椎骨動脈中の造影剤の動態は直接穿刺法とは異らない)があり、この方法の場合その副作用として病変が生ずる率は〇.五パーセント以下であつて(その症例として本件の原告にみられるような症状は見られない)、直接穿刺法に比して安全な撮影法であるが、この方法がわが国に入り普及したのは昭和四〇年前後であつた。

以上の事実が認められ、他に右認定を左右するような証拠はない。

五、以下右の認定事実を基に考える。

原告の頸部の前脊髄動脈症候群は、確かに本件椎骨動脈撮影の直後に発現したものである。従つて一応被告川上に何らかの過失があつたのではないかとの疑いが生ずるのも当然といえる。しかしながら、本件の椎骨動脈撮影の以前に既に四回に亘つて、いずれも失敗に帰したというものの原告が昭和二九年頃から自覚するに至つた項部の重圧感等の原因究明のために、椎骨動脈撮影が行われていたことからしても、新潟大学医学部附属病院脳神経外科において前記脊髄腫瘍を予想し、これを試みることとしたことに責むべき点は認め難く、ただ、被告川上敬三本人尋問の結果によると、その後の手術で、結局原告には右脊髄腫瘍の異常のないことが判明したことが認められるけれども、これをもつて直ちに原告に対する椎骨動脈撮影が不必要な施術であつたものと推認することはできない。その撮影前の原告の身体に対する事前検査、撮影の際の原告の身体に加えた処置、造影剤の種類、量、注射針の穿刺手技等の全般にわたつて決して不自然で疑わしいと思われる点がなく、撮影も完全に成功し、造影剤が動脈外に漏出した形跡はないし、そのうえ椎骨動脈撮影の合併症もしくはその副作用として、本件のような前脊髄動脈症候群が惹起された報告例もなく、一応考えうる直接穿刺法による危険性に基づく原因と原告の右症状との結合もむしろ否定的な面の方が強く、また直接穿刺法より安全性が高い経上腕動脈逆行性椎骨動脈撮影法は、当時未だ我が国には普及していなかつたことが明らかであるから、被告川上がこの撮影法を用いなかつた点は当然批難さるべき筋合ではなく、椎骨動脈撮影が必要とされる以上直接穿刺法による以外になかつたのであり、そして、これによる場合不可視の椎骨動脈自体に直接造影剤注入用の注射針を穿刺するのであるから、被告川上において過度に針を突刺する等の批難さるべき手技を試みたというような場合ならともかく、本件のように一回の試みで穿刺に成功しその手技に何ら批難できる要素もない場合には、もはやそれを被告川上の責任に帰せしめることは困難なことであるといわざるをえず、同被告の予見不可能な事態であつたと解して妨げないといえる。このような諸事情を考えると、原告の頸脊血管障害による前脊髄動脈症候群が被告川上による椎骨動脈撮影の直後に発生し、右撮影の過程における何かが契機となつて原告の右症状が発生していると解しえても、それが被告川上の過失によるものと推定することはもはや許されないと解するのが相当であり、結局被告川上の過失についての原告の立証が不十分でその真為が不明であるといわなければならないから、原告の本訴請求は、その余の点を判断するまでもなく失当である。

六、従つて、原告の本訴請求は理由がないから棄却することとし、訴訟費用の負担については、民事訴訟法第八九条を適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 岡田辰雄 渡辺卓哉 大沢巌)

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